■パールハーバー■
真珠湾攻撃(1941.12.08)
| 太平洋に広がる戦雲 |
1941年、日本では度重なる米英との政治的軋轢や、完全に泥沼化した日中戦争の状況を打開するため、欧州における同盟国ナチス・ドイツの快進撃に触発された陸海軍部はもとより、新聞等の報道に煽られた一般国民の世論においても米英との戦争は回避できないとする雰囲気が濃厚になっていた。
また、米国でもナチス・ドイツ討伐のため第二次世界大戦に参戦したい米国政府とルーズベルト大統領の意志に反して、モンロー主義を貫き中立を守りたい国民世論を参戦に導くため、最終的にハル・ノートに行き着く日本に開戦を強要させるための政治的圧力工作と並んで、国民に対してもマスコミを利用した日本を敵と扱う人種偏見的偏向報道が行われており、政府や軍の上層部は、日本を含む枢軸同盟国との開戦を時間のものとして覚悟していた。
こうして太平洋を挟む日米両国は、共に太平洋戦争開戦へ行き着く下り坂を自ら選ぶように転げ落ちて行ったのだ。
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| ニイタカヤマノボレ1208 |
このような状況の中で連合艦隊司令長官山本五十六は、圧倒的な国力と軍事力を誇る米国に小国日本が対抗する秘策として、先年の英軍によるタラント港奇襲作戦を例として、世界初の航空母艦を集中した機動部隊と、その艦載機により、真珠湾の米国太平洋艦隊主力に対する奇襲攻撃を行い、緒戦において短時間でも米海軍を行動不能にできる作戦を発案した。
そして、この作戦を実現するため1941年春には、連合艦隊司令部の独断で機動部隊の艦艇や艦載機部隊に真珠湾攻撃を可能とさせるための飛行訓練や給油訓練等の猛烈な訓練が開始され、同時に水深が浅く狭い真珠湾内に停泊する米国戦艦を攻撃するための特殊航空魚雷や徹甲爆弾の開発もはじめられていた。
このため実際に真珠湾攻撃が海軍内で決定事項とされたのは、日米交渉による政治的決着が完全に不可能となった11月に入ってからの事だったが、多くの海軍軍人達は、この真珠湾攻撃作戦の通達を既に決まっていた事として受け入れたと言う。
1941年11月17日、正規空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、巡洋戦艦比叡、霧島、重巡利根、筑摩、軽巡阿武隈、そして駆逐艦9隻の機動部隊に所属する20隻の軍艦と補給支援隊の9隻の輸送船は、機密保持のため日本各地の軍港をばらばらに出港し、厳重な無線封鎖を行うと同時に呉軍港や瀬戸内海から欺瞞電波を発信させる偽装工作を行いながら千島列島の択捉(エトロフ)島にある単冠(ヒトカップ)湾へ集結した。
そして、単冠湾からのハワイ諸島へ向けての出撃は、偶然にも日米交渉の最後の妥協案として日本政府が提案した乙案の返答として米国政府から事実上の最後通告であるハル・ノートを突き付けられたのと同日の11月26日であった。
その日、機動部隊は最も発見され難いが、猛烈な荒天が続く冬の北太平洋を乗り越えハワイ諸島へ向かい航海を開始した。
12月2日、ハワイを目指し北太平洋を航行する機動部隊は、本土の連合艦隊司令部から発信されたニイタカヤマノボレ1208の暗号を受信した。
この暗号の意味は、最後の日米の交渉は決裂した事を伝え、12月8日に真珠湾攻撃を実施せよと言う命令であった。
そして、翌12月7日午前7時(ハワイ時間6日午前11時半)機動部隊が、ハワイ諸島の米軍哨戒海域に進入すると同時に旗艦空母赤城のマストに30余年ぶりに今世紀2度目のZ旗が翻った。
「皇国の興廃 此の一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」
ここから先は、もう作戦が中止されることはない、米軍に発見されれば即座に開戦となる。遂に矢は放たれたのだ。
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| アメリカの油断 |
一方、宣戦布告前に奇襲を受けたとされる米国も、実際には、日本が使用する外交暗号や海軍暗号の多くを解読しており、日本が12月8日に開戦に踏み切ることを事前に察知していたのだが、米西戦争と同様に敵国に先に叩かせる事によって戦争の正当性を得、自国民世論の誘導を狙うルーズベルト大統領やハル国務長官の思惑に加え、よもや東洋人の国である日本の海軍とその艦艇が、開戦と同時に真珠湾まで攻撃を仕掛けてくるだけの能力を持つまいとの楽観、そして水深の浅い真珠湾では、航空魚雷の使用は不可能とする自国兵器のみを基準にした軍事常識に囚われた油断が合わさり、軍部の事前研究で真珠湾に対する日本軍による奇襲攻撃の可能性が示唆されていたにもかかわらず米国政府は、ハワイの米国太平洋艦隊司令長官キンメルに対して破壊工作の注意を促すのみで、大規模な奇襲攻撃の可能性を示唆する警告を行わなかった。
そのため、キンメル長官をはじめとする軍首脳部達は、日本との開戦を有る程度覚悟していながら、その開戦の地をフィリピン周辺と考えており、遂に悲劇の朝を迎えることになったとの説もある。
どちらにしても、彼が宿舎で日本軍の攻撃に気が付いた時には、真珠湾は、黒煙と火災の渦巻く戦場の真っ直中となっていたのだ。
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| トラ、トラ、トラ |
12月7日午前6時(ハワイ時間:日本時間は12月8日午前1時半:以後はハワイ時間で記載)、真珠湾西北沖370キロの距離で第1次攻撃隊を出撃させた。
戦闘機、急降下爆撃機、艦上攻撃機で編成される合計183機の第1次攻撃隊は、将兵が帽を振り見送る母艦から次々と離陸し、艦隊上空で編隊を組むと一路ハワイ諸島を目指して飛行を続けた。
この第1次攻撃隊がハワイ諸島に近付くにつれ雲量が増加し、目標発見が危ぶまれたが、ハワイ島上空付近に到達すると、オアフ島の真珠湾が雲の切れ間に浮かび上がるように見えているのが発見された。
この時まで、ホノルルのラジオ局は、迫りくる戦雲を知らず朝の音楽番組を放送し続けており、オアフ島の真珠湾や周囲の飛行場も未だ夜の余韻を残し、目覚めきらない状態にあった。
しかし、この時実際には真珠湾に隣接して配置された移動式対空レーダーには、第1次攻撃隊が捕捉されていたのだが、本土から飛来する予定のB−17重爆撃機の編隊と間違われて見過ごされていた。こうして米軍側に与えられた奇襲を防ぐ最後のチャンスは、失われた。
天佑我にあり!午前7時49分、攻撃隊隊長の淵田少佐は、直ちに電信員へ全機突撃を命ずる「ト」連送を発信させ、続いて7時52分に軍港にも、飛行場にも全く迎撃の動きが無い事を見て取るとハワイ沖の母艦や遙か彼方にある本土に向け、後に軍事史において最も有名な暗号のひとつとなる奇襲成功の暗号を打電した。
「トラ、トラ、トラ(ワレ奇襲に成功セリ)」
この奇襲成功の無電は、遙か太平洋を横断し広島県呉の柱島沖に停泊する山本長官座乗の連合艦隊旗艦戦艦長門でも明確に受信され、直ぐさま一日千秋の思いで真珠湾攻撃の結果を待ち続けていた山本長官へ伝えられたとされている。
こうして真珠のように美しい港と讃えられてきた太平洋最大の軍港の平和な朝は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)の合計183機もの航空機が撒き散らす騒音と破壊に打ち砕かれた。
7時55分、攻撃開始予定時刻より5分はやく、急降下爆撃隊がフォード島の飛行場に対して爆弾を投下するのを皮切りに日本軍艦載機の猛攻が開始された。
そして、押っ取り刀で離陸してきた4機の米軍戦闘機を制空隊の零戦が簡単に叩き落とすと、後は真珠湾の空は完全に日本軍のものとなった。
大馬力の発動機が吼え、急降下爆撃機のダイブ・ブレーキが唸り、そして機銃の発射音や爆弾と魚雷の爆発音がそれに続き、攻撃を受けた艦艇や飛行場の誘爆音が一際大きく響きわたる。
艦攻隊は、魚雷と徹甲爆弾を停泊中の戦艦群に次々と叩き込み、急降下爆撃機隊と戦闘機隊が飛行場に破壊を撒き散らした。
特に水深の浅い真珠湾で使用できるように密かに開発されていた航空魚雷は、戦艦オクラオマと旧式戦艦を改造した標的艦ユタを瞬時に転覆させ、ウエスト・バージニアとカリフォルニアも大量の浸水により大破着底させた。
また、魚雷攻撃が不可能な2列に並んで停泊する戦艦群の内側に位置する戦艦を攻撃するために艦攻隊に搭載された戦艦長門型の主砲弾を改造した特別な徹甲爆弾は、水平爆撃によるため命中率こそ低いものの命中さえすれば垂直防御装甲の薄い米戦艦には極めて有効で、このため戦艦アリゾナは、弾火薬庫を貫通され、主砲弾薬が誘爆して膨大な火炎と黒煙を吹き出し瞬く間に轟沈し、戦艦メリーランドとテネシーも大損害を受け炎上した。
完全に奇襲された米軍側は、7時58分に「真珠湾空襲は演習にあらず」と言う無線放送を発信したものの、その後は完全に混乱し、第1次攻撃隊は大した反撃も受けず8時半頃までに攻撃を終了した。
この第1次攻撃隊の戦果により真珠湾と米国太平洋艦隊主力は、壊滅状態に陥ったのだ。
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| 第2次攻撃隊 |
第1次攻撃隊の攻撃が終了するのと入れ替わるように8時49分に島崎少佐指揮の第2次攻撃隊、零戦35機、九九艦爆78機、九七艦攻54機の合計167機が真珠湾上空へ殺到し攻撃を開始した。
彼らは、第1次攻撃隊が討ち漏らした戦艦や施設を攻撃する任務を持ち、第1次攻撃隊の攻撃により生じた火災の黒煙の中から、ドック入りしていたために、それまで攻撃を免れていた戦艦ペンシルヴェニアを発見し、急降下爆撃機隊がこれに集中爆撃を加え、同じドックへ入っていた駆逐艦2隻と共に被爆炎上させた。
また、第1次攻撃隊の攻撃により被雷損傷したものの辛うじて離岸に成功した戦艦ネヴァダは、湾外への待避を試みたが、第2次攻撃隊の急降下爆撃機隊に発見されて集中攻撃を受け、多数の命中弾による損傷と浸水に耐えられず航行能力を喪失し、真珠湾の港湾機能を奪ってしまう湾口での沈没を避けるために浅瀬に乗り上げ座礁した。
この戦艦ペンシルヴェニアとネヴァダの損傷で真珠湾に存在していた8隻全ての戦艦が沈没するか傷付き、米国太平洋艦隊の水上戦戦力は壊滅状態になった。
しかし、奇襲こそされたものの日本との開戦を覚悟していた米軍の立ち直りは意外にはやく、第2次攻撃隊に対しては、湾内の各所から日本軍艦載機に対して猛烈な対空砲火が浴びせられ、その対空砲火は時間と共に増加し、第2次攻撃隊は9時45分頃に攻撃を終了するまでの間に第1次攻撃隊の9機喪失に比べ20機喪失と多くの損害を受けることとなった。
第2次攻撃終了後、第2航空戦隊の山口少将や機動部隊航空参謀の源田中佐が、第3次攻撃隊を編成し、未だ健在の港湾施設や燃料施設の攻撃を強く献策したが、開戦初頭から虎の子である機動部隊を、これ以上を傷つけたくなかった南雲長官は、米軍空母の所在が不明なこと、第3次攻撃は作戦に予定されていないこと、そして第2次攻撃隊の損害が多いことを理由に作戦の終了を発令し、艦隊は帰路についた。
この真珠湾攻撃により米軍は、戦艦4隻沈没をはじめ真珠湾に存在した戦艦全8隻の全てが沈没するか損傷し、その他艦艇にも大損害を受け、地上では航空機248機を失い、2000人以上の将兵が戦死した。
まさに米国海軍史上最大の損害である。
これに対して攻撃した日本軍の損害は、航空機29機、特殊潜行艇5隻の損失と極めて軽微なものだった。
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| 九軍神 |
また、猛烈な空襲により赫々たる戦果をあげた航空隊の影に隠れるように散った真珠湾特別攻撃隊の特殊潜行艇の事も真珠湾攻撃を語る上で忘れることはできない物語のひとつである。
僅か5隻の2人乗り小型潜水艇甲標的で真珠湾内へ潜入し、航空隊の空襲に前後して敵陣の攪乱と戦果の拡大をはかると言う極めて危険で成功率の低い任務を帯びた真珠湾特別攻撃隊の岩佐中佐以下10人の軍人達は、12月8日早朝にハワイ沖まで進出した潜水母艦から出撃し、全艇が再び還る事は無かった。
真珠湾特別攻撃隊の1隻は、真珠湾湾口で米駆逐艦に発見され、国籍不明潜水艦として航空隊の攻撃開始数時間前に撃沈された。
太平洋戦争初の戦死者は、日本軍から出たのである。
さらに1隻は、ジャイロ・コンパスの故障により迷走した挙げ句に座礁し、残る3隻も行方不明となって真珠湾特別攻撃隊は全滅した。
そして10人の軍人達は、座礁したため自爆を試みたが失敗し、意識を喪失した状態で捕虜になった酒巻艇長を除き全員が壮烈な戦死を遂げたものとされ、本国では、成功の可能性が極めて低い作戦に潔く殉じた彼らを九軍神として祭り上げた。
こうして全滅してしまった彼らの戦いを伝えるものは当然ながら無く、太平洋戦争終了後も長い間にわたり戦果不明もしくは無しと記録されてきたが、近年に行われた当時の写真を詳細に調査する研究により、最低一隻の特殊潜行艇が湾内に侵入し、航空隊の空襲に呼応して停泊中の戦艦群に対して雷撃を敢行した事が確認されたのである。
こうして彼らの勲は、五十余年の歳月を経て初めて祖国へ伝えられる事となった。
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| 巨人、アメリカ合衆国の参戦 |
この真珠湾攻撃により日本海軍は、世界に類を見ない史上稀な赫々たる戦果をあげ作戦を成功させたのだが、その裏で戦争の行く末に暗雲を投げかける事態が発生していた。
日本軍の作戦予定では真珠湾に対する攻撃開始予定時刻の8時(実際には7時55分に初弾が投下された)より30分前に米国に対して宣戦布告を行う予定だったが、米国の日本大使館の怠慢と誤判断により本国から送られてきた宣戦布告の暗号文を、正式な英語の宣戦布告文に変換する作業に大きく手間取り、宣戦布告文書が米国政府に手渡されたのは、日本軍の攻撃開始から約55分後の事となっていたのだ。
この失態と、12月11日にナチス・ドイツのヒトラー総統が日本との条約を律儀に守り米国へ宣戦布告した事により、第二次世界大戦への参戦を躊躇していた米国民に、卑怯な騙し討ちをした日本とその同盟国であるナチス・ドイツを征伐すると言う積極的戦争参加の意志と大義名分が与えられ、米国政府の先導により「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」の標語までが作られる中で、世界最大の工業大国アメリカ合衆国が、いよいよ連合国側の一員として全力をあげて第二次世界大戦に参戦してしまったのだ。
大きな意味では、この米国の参戦により日本を含む枢軸同盟国側に第二次世界大戦での勝利の可能性は無くなった。
真珠湾攻撃は、日本海軍にとって作戦的には大成功だったのだが、国家としての政治的な意味では大失態を犯したことになってしまったのだ。
<制作:EEG 相曽 / 監修:(株)チキンヘッド 南>
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