main11.gif

| 特集目次へ | トップページへ現在のかごの中 | 書籍紹介 |



■戦艦大和の最期■

第一遊撃部隊の海上特攻作戦(1945.04.07)

沖縄 | 出撃命令 | 第一遊撃部隊 | 出撃の日 | 米国海軍 | 死闘!1時間50分!! | 第二水雷戦隊 | 墓標 | 部隊編成 |

沖縄
 昭和20年(西暦1945年)春、マリアナ諸島、フィリピン諸島、そして本土の一部である硫黄島と、続けざまに攻略して来た米軍を主力とする連合軍が遂に琉球諸島へ襲来した。
 この沖縄本島を中心とする琉球諸島は、同じ本土の一部だが小さな火山島に過ぎなかった硫黄島と違い、県を形成する事が可能な広さを持ち、多くの一般国民が居住するまさに本土の一角であった。
 しかも、この沖縄を巡る戦いは、大日本帝国にとっては、本土決戦準備の時間を稼ぐ重要な戦いであり、同時に日米双方にとって続いて発生するであろう本土決戦の行方を占う前哨戦に位置付けられていた。

 そのため琉球諸島には沖縄本島だけで牛島満中将が率いる陸軍部隊の将兵約8万6千名と大田実少将が率いる海軍部隊の将兵約1万名の合計約10万名の陸戦兵力が配備されていた。
 また、そればかりではなく現地の成人男性はもちろん、本来なら只々護られるべき一般国民である筈の少年達や女学生達までが補助兵や補助看護兵として軍に編入される程の根こそぎ動員が実施され、襲来するであろう米軍上陸軍を迎え撃つ準備がなされていた。

 しかし、約1年前の昭和19年春には、開戦以来最大の勢力に達していた日本の艦隊戦力はマリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦の三大決戦をはじめとする数多の戦いで消耗し尽くし、残された艦艇の多くも物資と燃料の欠乏により出撃することはもちろん、損傷を癒すことすらも難しくなっていた。
 今や実戦可能な大型戦闘艦は世界最大の戦艦である戦艦大和ただ一艦を残すのみとなっていたのだ。

また、太平洋戦争において艦隊以上の主要戦力となっていた陸海軍の航空機部隊も、開戦時には世界屈指の技量を持つと評された熟練操縦士達を開戦以来続いた死闘の末に数多く失い。それに物資と燃料の欠乏が追い打ちをかけたためにまともな航空作戦は望めぬ状況になり果て、外道としか言いようのない自爆体当たり攻撃を行う特別攻撃隊を作戦の中心に据えざるえない状況に追い込まれていた。

 このため今後襲来するであろう米軍艦隊に対する大日本帝国陸海軍がとり得る攻撃方法は、航空機による特攻体当たり攻撃を中心とすることになり、琉球諸島攻略戦の前哨戦として沖縄本島西方の慶良間列島近海へ米軍上陸艦隊が襲来し、上陸作戦を開始した3月26日には既に「天一号作戦」が発動され猛烈な航空特攻作戦が展開されていた。

 こうした状況の中で3月29日、軍令部総長及川古志郎大将が昭和天皇に南西諸島方面の戦況を奉上した時に昭和天皇がもらした「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はないのか」の一言が、第二艦隊に所属する可動水上戦闘艦を集めた第一遊撃部隊による沖縄への海上特攻作戦が生まれる発端となった。
 この御言葉は、帝国海軍の損耗を憂いた心痛から出された一言だったとされるが、ひとたび連合艦隊司令部にもたらされると言葉だけがひとり歩きし、狂気の事態を巻き起こす事となった。
出撃命令
 この海上特攻作戦は、連合艦隊司令長官豊田副武大将により発令されたものだったが、実際の作戦立案は、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将が九州へ出張している隙を突いて、連合艦隊首席参謀の神重徳大佐をはじめとする参謀達が強引に推し進めた作戦であった。
 神参謀は、第一次ソロモン海戦(1942年8月)で奇跡的勝利を奪い取り、レイテ沖海戦(1944年10月)では「栗田艦隊 謎の反転」で成功こそ逃したものの、その一歩手前にまで到達した作戦の立案に参加した艦隊殴り込み作戦立案の名人である。

 この作戦のおおよその骨子は、沖縄の第三十二軍参謀長である長勇中将が主張する反攻作戦に呼応して実施される陸海空三兵力共同による大反撃作戦であった。
 まず、航空特攻隊が沖縄近海の米軍艦隊に襲撃を加え、続いて第二艦隊に所属する可動水上戦闘艦を集めた日本海軍最期の水上戦闘部隊である第一遊撃部隊が沖縄近海へ進出して米艦隊を攻撃し、さらに可能ならば大和は最終的に沖縄本島沿岸で座礁して要塞となり陸上部隊と共同して戦闘を継続、またそれらの戦闘による敵軍の混乱に乗じて沖縄の第三十二軍が米軍上陸部隊に総反撃を実施し、これを撃破殲滅すると言うものだったとされる。
 もちろん、この作戦計画が戦況に全く適合しなかった事は、当時の海軍首脳部達にとってさえ明白で、相手があることを考慮しない極めて自己満足的な作戦計画であった。

 しかし、神参謀らは海軍の面子や威信を強く追求して、この勝算や人命損失を考えない作戦を立案し、また作戦の実施を決断する立場にあった豊田長官も、打ち続く難局に直面して合理的な判断力を低下させていたのか、神参謀らの献策を僅かながらも成功の可能性があるものと信じて積極的に賛成してしまった。

 この時、もともと精神論に偏りがちで、しかも戦前からドイツかぶれで有名だった神参謀の胸中には、第一次世界大戦において世界第2位の海軍戦力を保有しながら、敗戦に際して最期の出撃時期を誤り、水兵達の反抗の末に戦うことなくその保有する多くの主力艦をみすみす自沈させて滅び去ったドイツ帝国海軍の無惨さと不甲斐なさを大日本帝国海軍が、そして大和が再び繰り返す恐怖が渦巻いていたのかもしれない・・・。

 しかし、この暴挙的作戦には、当然ながら連合艦隊司令部や軍令部内でも多くの反対の声があがった。
 特に神参謀らによる作戦立案時に意識的に蚊帳の外に置かれていた草鹿参謀長や軍令部第一部長の富岡定俊少将らは強く反対したが、神参謀らは、既に豊田長官が命令を承認していることを楯に取り、さらには大日本帝国陸海軍総帥の名をまで出して強引に作戦発動を押し通した。
 このため軍令部総長の及川古志郎大将や軍令部次長の小沢治三郎中将ですら沈黙を強いられるにおよんで海軍内部は次第に諦めや黙認のムードが大勢を占め、遂に小磯内閣総辞職を巡る陸海軍まで巻き込んだ混乱の中で済し崩し的に天一号作戦の一環として海上特攻作戦が発動された。

 こうして第一遊撃部隊の特攻出撃と航空部隊の特攻総攻撃である「菊水一号作戦」の発動が決定し、現地の第三二軍へも海空の特攻に呼応した敵上陸部隊への反撃が命じられた。


命令六一一号(昭和二〇年四月五日 一五〇〇発令)



 一.帝国海軍部隊オヨビ第六航空軍ハ六日以降全力ヲアゲテ沖縄周辺敵艦船ヲ攻撃セントス。



 二.陸軍第八飛行師団ハ協力攻撃ヲ実施、第三二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始シ、

      敵上陸部隊ノ掃滅ヲ企図ス。



 三.海上特攻隊(第一遊撃部隊)ハ七日黎明時豊後水道出撃、八日黎明時沖縄西方海面ニ突入、

      敵水上艦艇ナラビニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ。



 だが、米軍を主力とする沖縄侵攻部隊の強大な戦力を自らの血肉で直接感じている現地の第三十二軍司令部は、この命令遂行の結末を冷静に判断し、「その厚志には感謝するが時期尚早と考がえるので海上特攻の出撃は中止されたい」との要請を同日中に緊急返信した。

 この緊急返信は、長参謀長の主張する短絡的な反攻作戦を苦々しく思い、綿密に組み立てた持久作戦の実施を考えていた第三十二軍高級参謀の八原博道大佐による献策を、牛島中将が聞き入れ発信させたものであった。ある意味では自ら戦場の地にあった陸軍の牛島中将らが最も冷静であったのかもしれない。
 しかし、この陸軍第三十二軍司令部からの要請は、連合艦隊司令部から無視するかの如く扱われ、陸軍側との満足な調整すら行われないままに翌6日には遂に第一遊撃部隊の海上特攻作戦が発動されることになる。

 また、この出撃命令により出撃や突入の日時が指定されてしまった事により、春季の東シナ海において間違いなく発生するであろう悪天候(実際に4月9日より航空作戦が難しい程の悪天候となった)を利用すると言った作戦の戦術的柔軟性までが第一遊撃部隊から奪われていた。
 この作戦日時の指定は、連合艦隊司令部側が栗田艦隊へ柔軟な作戦変更の権利を認めていたためにレイテ湾への突入に失敗した捷一号作戦の二の舞を演じることを恐れたためであろうと考えられる。

第一遊撃部隊
 もちろん6千名以上にもおよぶ士卒の命を預かる第一遊撃部隊司令部でも、当然ながらこの価値も目的すらも見出せない作戦を納得できるわけがなかった。
 第二艦隊司令長官の伊藤整一中将や以前大和の艦長を務めたこともある第二艦隊参謀長の森下信衛少将らをはじめとする第一遊撃部隊司令部は、日本側にまったく制空権の無い戦況下での小規模な艦隊作戦を不可能と判定し、第一遊撃部隊を解散し大型戦闘艦は全てが敵軍上陸予想地付近へ座礁して浮き砲台となり最期まで敵軍を迎え撃つ事を考えていたのだ。

 しかし、連合艦隊司令部から出撃命令が届くと大和艦長の有賀幸作大佐は、艦長とは艦の全てを任される者であって、作戦判断に介入すべき役割ではないとの思いからか、大日本帝国海軍の伝統であるサイレントネービーの言葉に従い、一度命令を発令されたからには帝国海軍軍人の義務として出撃を覚悟し、大和乗組員らを全て前甲板へ集め、艦長自らが出撃の決意を伝える訓令をおこなった。

 また、海上特攻を行う大和を護衛する随伴艦隊には、第二艦隊に所属する第二水雷戦隊が選ばれ、第二水雷戦隊旗艦軽巡矢矧以下、駆逐艦磯風、雪風、浜風、朝霜、霞、初霜、冬月、涼月の9隻の艦艇が慌ただしく出撃準備を開始した。
 この随伴艦隊に所属する艦艇は、海上特攻艦とは違い航空特攻における護衛機と同様に大和の特攻実施後には帰還することが許されていた。
 しかし、沖縄を包囲する敵の大艦隊と無数の艦載機の中へ突入するこの作戦において、随伴艦隊と言えども生還の望みは極めて低く、大和同様に決死の覚悟での出撃であった。

 この時点で公平に考えるなら、たとえ大和と言えどもわずか1隻の戦艦と10隻に満たない護衛艦艇による艦隊では、戦力として無価値な存在に近く、沖縄への艦隊突入は軍事常識から見て無益以外の結果を生むものでもなかった。
 しかし、戦争という国家的愚行の幕引き役を引き受け、滅びゆく祖国へ殉ずる覚悟をした第一遊撃部隊の将兵達は見事だった。彼らは迫り来る死という過酷な運命と、それをもたらす国家への義務から逃げることなく、堂々と死出の旅路へ赴いたのだ・・・。
 彼らはこの出撃をいにしえの平家滅亡に殉じて海に散った侍達の心根に似せて、滅びゆく祖国へ殉じ、残された人々の精神的支柱となる事と納得したのだろうか?

 また、第一遊撃部隊の海上特攻作戦発動の命を受けた大日本帝国海軍の各部隊は、この死出の旅路に赴く第一遊撃部隊へ可能な限りの便宜を図っていた。
 豊田長官をはじめとする連合艦隊首脳部は、その時点の燃料備蓄状況では第一遊撃部隊に沖縄と本土を往復させるだけの燃料は用意できないと考え、大和への給油は2000トンまでとの連合艦隊命令を発令していた。
 しかし、徳山をはじめとする燃料貯蔵施設では、ほぼ備蓄燃料が底を付いていた貯蔵タンクや、それに付随するパイプ等から手押しポンプまで用いて乾布を絞るような思いで燃料を掻き集め、代用燃料までを含めることで第一遊撃部隊が沖縄で戦い、そして本土へ帰り着けるだけの量を用意する事に成功していた。
 こうして出撃当日である翌日までに第三十一駆逐隊により運ばれた燃料が大和には約4000トン、矢矧には約1250トン、そして随伴する駆逐艦には全艦が満載となるだけ搭載され、これを知った第一遊撃部隊の将兵達の士気は極めて高まった。
(作者注:あらかじめ大和に備蓄されていた燃料を随伴艦艇へ分与したとする説もある)

 この行為は、国の動脈を護る護衛艦隊や掃海部隊向けの燃料すら使い尽くすもので、この燃料不足による海上護衛戦力の低下と、米軍が3月末から開始したB−29戦略爆撃機までを機雷敷設に使用する大規模な海上封鎖作戦により日本本土近辺の海上輸送能力のほとんとが失われた。
 このため海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐らから後に激しい批判の対象にされる事となった。

 だが、この時ばかりは第一遊撃部隊の出撃が大日本帝国海軍の事実上の終焉であることを皆が悟っており、事態は情緒的な何かに突き動かされるように冷静さを失い突き進んでいった。

 しかし、その混乱した熱気の中で還ることのない出撃を覚悟した第一遊撃部隊司令部は、一片の理性を残しており、未来の日本へ何かを残すその行為が、せめてもの罪滅ぼしのであるかように、大和や矢矧に乗り組んで日の浅い士官学校を卒業したばかりの若年士官達に空母天城や葛城への移乗を命じ、補充兵や傷病兵達を陸上勤務へ配置換えを行った。
 そして、いよいよ艦内の可燃物除去や陸戦用の小火器を含む弾薬の積み込みが行われ、5日夜には出撃を前に恒例の酒保が開放され全艦の乗員を総動員した最期の宴が催された。
出撃の日
 翌4月6日、連合艦隊司令部が豊田長官名で出撃へのはなむけの如く第一遊撃部隊へ「帝国海軍部隊ハ陸軍ト協力空海陸ノ全力ヲアゲテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対スル総攻撃ヲ決行セントス。皇国ノ興廃ハマサニ此ノ一挙ニアリ。ココニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ、壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ、帝国海軍力ヲコノ一戦ニ結集シ、光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、ソノ栄光ヲ後世ニ伝エントスルニ外ナラズ。各隊ハソノ特攻隊タルト否トヲ問ワズ愈々殊死奮戦敵艦隊ヲ随所ニ殲滅シモッテ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ。」との訓辞を電送してきた。

 さらに連合艦隊司令部は、第一遊撃部隊へ引導をわたすためか、連合艦隊司令部から急遽航空機を使って連合艦隊参謀長の草鹿中将と連合艦隊参謀の三上作夫中佐らを第一遊撃部隊へ赴かせ、出撃間近の伊藤中将や第一遊撃部隊司令部の士官達と大和で命令徹底の会談を行った。

 まず、伊藤中将が1人で草鹿中将らを大和の長官室へ迎え入れて会談したという。
 伊藤中将は、この作戦に真っ向から反論できる立場にあったのだが、太平洋開戦時から長く軍令部次長を務めていた事もあってか、戦局がこのような状況へ至ったことへの責任を強く感じていたのであろう。
 そのため、この作戦に対して反対意見を持ち、当然ながら第一遊撃部隊側の心情を理解しているであろう草鹿中将らが苦渋の末に発した「帝国海軍の栄光を後世に伝え、一億総特攻の魁となる」との言葉の前に、敢えて自らの死に場所を求めるかの如く静かに頷き反対意見を主張しなかったと伝えられる。

 続いて行われた第一遊撃部隊司令部との会談では、当然ながらこの出撃に大きな疑問を持つ艦隊参謀や駆逐隊司令らが多くの疑問や否定論を噴出させた。
 しかしここでも草鹿中将らが「帝国海軍の栄光を後世に伝え、一億総特攻の魁となる」と口にすると第一遊撃部隊司令部の指揮官達は、悟ったかの如く一斉に納得の意を示したと伝えられる。
 また、前日に大和の乗組員全員へ訓辞を行った時点で運命を受け入れ、覚悟を決めていたと思われる戦艦大和の有賀艦長は、この会談中ずっと穏やかな表情のまま一言も発さず会議室の一角に座り続けていたと戦後になって草鹿中将が遺族らに回想している。
 こうして伊藤中将と有賀艦長の覚悟を軸として第一遊撃部隊司令部は、現代の我々から見ると正統化の難しい理由により大日本帝国海軍軍人としての義務感で出撃を承知した。

 またこの日、第一遊撃部隊に呼応して沖縄近海の米艦隊攻撃を命じられた陸海軍航空隊は可能な限りの特攻機を沖縄近海の米艦隊攻撃へ投入する菊水一号作戦を一足先に発動し、この第一遊撃部隊の出撃に呼応して沖縄近海の米軍艦隊を攻撃した。
 第一遊撃部隊が出撃するこの日だけで陸海軍併せて約300機の特攻機が沖縄を目指して出撃し、突入予定日の翌4月7日にも約100機の特攻機が投入された(護衛機含む)。
 陸海軍航空隊は、この特攻攻撃により沖縄近海で正規空母ハンコックや軽空母サンジャシント、戦艦メリーランド等を損傷させ、護衛艦や輸送船等を20隻以上も撃沈あるいは損傷させた。

 そして第一遊撃部隊は、1520時(15時20分)までに全艦が碇を上げて、徳山沖の泊地を出撃した。
 すでにこの時期には、B29戦略爆撃機まで用いた機雷敷設が西日本に位置する港湾近海で多く行われており、例え瀬戸内と言えども安全とは言えない状況であった。そのため第一遊撃部隊前方を第三十一駆逐隊が前路掃海部隊として航行していた。

 1610時、第一遊撃部隊が安全海域へ達した頃、それまでこの作戦の是非に付いて沈黙を続けていた伊藤中将が全艦隊宛てに決意を表明したとも思える訓令を信号で行った。
 「神機マサニ動カントス 皇国ノ降替繋リテ此ノ一挙ニ存ス 各員奮戦敢闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻ノ本領ヲ発揮セヨ」

 やがて1620時に、艦隊は完全に安全海域へ入ったと判断され前路掃海部隊の第三十一駆逐戦隊が分離された。

 1640時、瀬戸内を西水道目指して航行する第一遊撃部隊上空にB29が飛来した。
 このB29は、第一遊撃部隊の出撃をいち早く察知した米軍が派遣したものだとされる。

 1945時、第一遊撃部隊は西水道を通過した後に隊形を第一警戒航行序列に変更し、2000時には対潜警戒運動である之字運動を開始し、一路沖縄を目指して南進した。
 時は4月6日、まさに春の盛りである。夕暮れ近い瀬戸内の岸に咲く桜達は死出の旅路へ赴く第二艦隊の将兵達を満開の桜花で慰め送り出したのであろうか?

 2020時、駆逐艦磯風が敵潜水艦らしきものを発見し、矢矧がそれを探知したが、敵潜水艦は敢えてそれ接触以上の行動を行ってこなかった。
 しかし、2130時に矢矧が近距離から発信される極めて強い敵の通信電波を探知した。
 敵潜水艦は攻撃こそ実施しなかったが、複数艦の連携により第一遊撃部隊を執拗に追尾しており、第一遊撃部隊の情報が次々と米軍司令部へ打電されていた。
米国海軍
 この時、沖縄近海に展開していた米軍を主力とする連合軍は、正規空母および軽空母合計22隻、戦艦20隻、巡洋艦32隻、駆逐艦83隻、艦載機約1100機の史上最大規模の洋上戦力を持つ大艦隊で、それに加えて上陸軍総計約45万名と、それを支援する無数の護衛艦艇や揚陸艦、輸送船等がいた。

 スプルーアンス大将を司令官とする沖縄侵攻軍の米艦隊司令部は、このわずか10隻に過ぎない第一遊撃部隊の出撃に対して、長期にわたって米国海軍の象徴的存在でありながら、太平洋戦争では真珠湾で大損害を受け、その後は対地支援程度にしか使われていないため大きな武勲もなく、近い将来に訪れるであろう終戦によりほとんどが退役しスクラップとなるであろう旧式戦艦隊への餞として史上最大の戦艦である大和撃沈の武勲を与えようと考えていた。

 もし、そのまま状況が変わらなければ第一遊撃部隊と米国旧式戦艦隊の交戦が発生し、その結果が如何様であっても大和は戦艦としての真価を発揮する事ができたのかも知れない。しかし、第一遊撃部隊が米軍潜水艦の索敵を回避するため東シナ海へ入り一時的に進路を西に向けた事が、この大和が戦艦として生涯を全うする最期の機会を潰してしまった。
 第一遊撃部隊が日本海側へ離脱することを怖れた米軍司令部は、ミッチャー中将指揮下の空母機動部隊とその艦載機へ第一遊撃部隊攻撃の命令を下したのだ。
 こうして第一遊撃部隊への攻撃は空母機動部隊の艦載機が担当することが決まった。
 そして、空母機動部隊は連日の特攻攻撃により若干の損害を受けていたものの、その損害を全く意に介さず、延べ1000機とも言われる膨大な数の艦載機を大和撃沈のため第一遊撃部隊へ差し向けてきた。

 しかも、この米軍艦載機部隊は、漠然と数に頼った攻撃を行ったわけではなかった。
 最後の史上最大の戦艦を討ち取るべく、レイテ沖海戦で撃沈した大和の同型艦である戦艦武蔵との戦例を参考に全力を持って第一遊撃部隊へ襲いかかったのである。

 まず、急降下爆撃を行う艦載機は、大和が打ち上げてくる対空砲火の脅威を削減するために対艦用の徹甲爆弾に加えて対地用の破片爆弾を併用していた。
 極めて強固な装甲防御力を持つ戦艦に対しては徹甲爆弾はその装甲を貫通する事ができず、加えて炸薬量も少ないので爆発による威力だけでは大きな損害を与える事ができない。
 ならば火薬量が多いため爆発威力だけは大きい対地用の破片爆弾で甲板上にある対空火砲や航開装備を破壊してしまおうと言う考えによる選択であった。

 また、大和に随伴する非装甲の軽艦艇に対しては、対地用の破片爆弾でも直撃させれば充分に致命的な効果を与えられるとの読みもあったのだろう。
 この対地用の破片爆弾を含む爆撃の効果は大きく、戦闘序盤で2発の爆弾を続けざまに被弾した大和左舷の対空砲火は著しく低下し、左舷への魚雷集中のきっかけとなった。

 また、雷撃機による雷撃は巨大な浮力と強靱な水中防御力を有する大和に効率よく打撃を与えるため、かなり深い深度を走行するように調整されていた。
 さすがの大和と言えども艦腹下方部にまで強固な防御構造は施しておらず、加えて水圧効果のため魚雷の爆圧が艦腹方向へ効率よく指向することもあり魚雷の命中は大きな破壊力を持っていた。
 しかし、逆に喫水の浅い随伴艦隊の駆逐艦では、一度は魚雷の命中を覚悟したものの、この深い深度で走行する魚雷が艦底下をすり抜けてしまい九死に一生を得たとの記録が残っている。

 そして、この戦いで米軍艦載機が使用したロケット弾による攻撃は艦艇の対空火砲に対して極めて有効な制圧手段であった。
 爆弾より命中率が高く、機銃掃射より射程距離が長く爆発威力もあるロケット弾の攻撃は、非装甲の駆逐艦にならそれだけで致命傷を与える可能性があるばかりでなく、装甲を持つ大型艦である大和や矢矧に対しても充分な効果を持つ兵器であった。
 例え世界最大級の装甲防御力を有する大和と言えども主砲塔や主要防御部等と違って対空用の高角砲砲塔や機銃座には、ほとんど装甲を施していなかったのだ。
 米軍はこのロケット弾の採用により本来なら大型艦攻撃任務に適さない艦上戦闘機にまで有力な攻撃手段を持たせる事に成功していた。

 加えて、米軍がF6F艦上戦闘機に意欲的に実施していた12.7ミリ機銃の20ミリ機関砲への換装により20ミリ機関砲搭載型となったF6F−5Nも日本軍艦艇に取っては極めて厄介な存在だった。
 この20ミリ機関砲は夜間での空中戦および対地攻撃や軽艦艇攻撃用としての活躍を期待され、それまでにも輸送船等を相手に猛威をふるっていたものだが、こちらも非装甲の駆逐艦には極めて危険な存在だったし、対空機関砲の防御鋼鈑位なら簡単に貫通して、後方の機関砲基部を破壊したり操作員を殺傷させることができるため大和や矢矧ですら無視するわけにはいかなかった。

 また、米軍艦載機部隊は、レイテ沖海戦で集中攻撃を受けながらも驚くべき強靱さを見せつけた武蔵の戦例から、予め大和の左舷側へ集中攻撃を加える手筈を整えていたとも言われる。
 しかし、これは交戦初期に命中した爆弾により左舷側対空火力が弱まったことに加え、交戦前に脱落した朝霜をはじめとして艦隊左翼側の随伴艦が次々と脱落したため、現場での戦術的判断により選択されたとの説もあり一概に言い切れない。
 しかし、米軍艦載機の操縦士達の練度はレイテ沖海戦時と比較しても向上しており、それらの戦術を実施することが充分に可能だった事だけは間違いない。
死闘!1時間50分!!
 遂に運命の1日が始まった。
 この日は、断続した低気圧の前線が西から東シナ海を覆いつつあり、朝から低く垂れ込めた雲が天を覆っていた。この雲は攻撃側の米軍艦載機に索敵や対艦攻撃を難しくするものであったが、それ以上にレーダーによる対空射撃システムを持たない第一遊撃部隊の対空戦闘を難しくするものであった。
 特にレイテ沖海戦時に小沢艦隊の空母を直衛した戦艦伊勢と日向が実施して、大きな効果があると認められていた、主砲三式弾による遠距離阻止弾幕射撃の効果的な実施は、全く不可能となっていた。有効視認距離が5万メートルにも達していたレイテ沖海戦時のフィリピン近海の天候とは余りにも条件の違う悪天候におおわれた春の東シナ海であった。

 0600時、第一遊撃部隊は大隅海峡を抜けると第三警戒航行序列に隊形を変更し約18ノットの巡航速度で一路沖縄を目指した。

 0630時、大和は搭載していた最後の1機である水上偵察機を発進させた。
 劣勢を極めた戦局を考え、わずか1機といえども貴重な航空機と、その操縦士達を無駄死にさせられないと考えたのであろう。水上偵察機は北を目指し消えていった。
 そして、その水上偵察機と入れ替わるように10機程度の友軍戦闘機が北から現れ、上空直衛を開始した。
 彼らは、第一遊撃部隊の出撃の報を聞いた第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が、せめてもとの思いで九州の各基地から派遣されてきた戦闘機隊であった。
 宇垣中将は、第一戦隊司令官として大和に乗り込みレイテ沖海戦にも参加した事があり、大和に対して強い思い入れが有ったのだと伝えられる。
 戦闘機隊は、約3時間半にわたり艦隊上空をゆっくりと大きく旋回し続け、第一遊撃部隊の将兵を励まし続けた。
 しかし、彼らの多くも菊水一号作戦のために特攻機や護衛機として沖縄へ出撃する運命を持つ者達であり、本来の任務遂行のため1000時頃までに全機が第一遊撃部隊上空から去っていった。
(筆者注:これらの直衛機については実際には派遣されず、記録に残されているものは帰還させた水上偵察機が艦隊上空で行った決別の旋回を誤認したものとする説もある)

 1016時、直衛機の帰還を待っていたかのように米軍の偵察機2機が第一遊撃部隊上空に出現し接触を開始した。
 1017時、この2機の偵察機から緊急通信が発信されていることが確認され大和が主砲により対空射撃を実施したが効果は無かった。これに対して米軍機は主砲射程外へ退き、距離を保って偵察活動を続行した。
 1114時、今度は8機の米軍機が出現し接触を開始した。これに対して大和と矢矧が射撃を加えたものの追い散らすのがやっとで、これらの偵察機も艦砲の射程外から偵察活動を続行した。

 1135時頃、大和に搭載された号電探は約100キロの距離で米軍艦載機の大編隊を捕捉することに成功した。遂に敵の攻撃隊が来襲したのだ。
 しかし、第一遊撃部隊は、この米軍艦載機の大編隊を迎撃することができる直衛戦闘機を1機も持っていなかった。そのため第一遊撃部隊は、敵機の襲来を待ち受けつつ沖縄を目指し南進することしか術がなかった。

 また、0700時頃から機関不調を生じていた朝霜は、この頃までに艦隊から完全に脱落し、水平線の彼方に消えていった。

 こうして、いよいよ戦闘が開始されようとする1130頃の第一遊撃部隊上空の天候は、曇小雨模様、雲量10、雲高1〜2キロ、風向南寄り、風速12m/秒と記録されている。
 この天候は、特に急降下爆撃と艦隊側の対空射撃を困難とするものであった。


 そしていよいよ死闘が開始された。
1232時:敵機約200機以上からなる第一次攻撃隊第一波が襲来
      第一遊撃部隊は18ノットから24ノットへ増速しジグザグ運動を開始
1234時:大和主砲および副砲による対空射撃を開始
1240時:第1遊撃部隊全艦対空射撃開始
1241時:大和後部艦橋左側付近へ爆弾2発が命中し後部射撃指揮所、第2副砲塔、
      十三号電探および電探室が破壊され大火災が発生する
1245時:大和左舷前部へ魚雷1命中
      駆逐艦浜風が炎上航行不能となる
1246時:軽巡矢矧が被弾により航行不能となる
1248時:駆逐艦浜風が沈没する
      駆逐艦冬月にロケット弾2発命中
1305時:駆逐艦冬月艦艇を魚雷1が通過
1308時:駆逐艦涼風が被弾炎上する
1325時:駆逐艦霞が航行不能となる
      大和被弾累加のため駆逐艦初霜に通信代行を命じる
      敵第一次攻撃終了
 1230時頃、遂に第一次攻撃隊の200機以上もの米軍艦載機が第一遊撃部隊上空へ到着した。
 この第一次攻撃隊はわずか10隻からなる第一遊撃部隊に対して、あまりに機数が多すぎたため全機が同時に攻撃を行うことができず、二派に別れ約10分の間隔を開けて第一遊撃部隊へ殺到した。

 1234時、戦闘は大和による主砲三式弾射撃で幕を開けた。
 この焼夷榴散弾による射撃は、対空火力の低い日本軍艦艇の切り札とも考えられていたものだったが、この日の雲が低く垂れ込めた天候では対空用射撃レーダーを持たない大和の主砲対空射撃は効果が極めて小さく、高角砲や機銃座の対空戦闘準備のために早々に射撃がうち切られた。そして、この射撃が大和の行った最期の主砲射撃となった。

 大和の主砲射撃が終了すると直後に副砲が対空射撃を開始し、続いて第一遊撃部隊の全艦が対空射撃を開始した。
 また、第一遊撃部隊は群がる約200機の米軍艦載機に対して対空射撃を加えつつ、日本海軍の伝統である優秀な操艦技術と各艦艇の優れた旋回性能を利用した回避運動を実施し、7万トン近い巨大な排水量を持つ大和ですら右へ左へと転舵を繰り返しす事で多くの敵弾を回避していた。特に急降下爆撃に対する回避は見事で多くの攻撃を回避していた。

 しかし、敵機の攻撃も極めて巧みで、前後左右から連携して肉薄してくる雷撃機と爆撃機の連続した猛攻撃により遂に1弾また1弾と魚雷や爆弾が大和の巨体へ吸い込まれるように命中しはじめた。
 大和艦橋部に通信士官として乗り組んでいた吉田満少尉は、この攻撃は誠に見事であったと後に著書「戦艦大和ノ最期」に書き記している程である。

 戦闘開始から約1時間、この猛攻撃により2発の直撃弾を受けて後部艦橋と第2副砲、そして十三号電探が破壊され、加えて後部艦橋周辺の対空火砲に大きな損害が発生した。
 また、この直撃弾により発生した火災が沈静化せず、やがて大火災となり大和沈没の時まで燃え続けた。その火災による高熱と火煙は、対空射撃や応急処置を妨害したばかりでなく、第三主砲塔弾火薬庫や第二副砲塔火薬庫までを危険にさらす程であった。

 また、その広大な甲板上に多数が設置された対空機銃座にも直撃弾や至近弾の破片に加え、敵機の機銃掃射による銃弾までが降りそそぎ、操作員が死傷し銃座も破壊された。
 加えて直接被害を受けていない機銃座でも、就役後になって逐次多数が増設されていた特設機銃座では、艦内から直接弾薬の補給ができない場所が多く、被弾による弾薬運搬経路の破壊や甲板上を無数に飛び交う破片や銃弾、そして船体の傾斜により人力による甲板を伝っての弾薬運搬が事実上不可能になると次々と弾薬欠乏をおこして沈黙してしまった。

 さらに、これらの直撃弾と至近弾の破片や機銃掃射が、マストやアンテナ等の大和の通信設備にも大損害を与えたため、大和は第一次空襲の終了を待って駆逐艦初霜へ通信代行を命じた。

 また、この空襲により大和の左翼に位置していた駆逐艦涼風や霞と言った随伴艦が次々と損傷脱落してしまい、これにより戦艦大和の左舷を護る対空防御砲火が一段と弱まってしまった。

 こうして左舷側の対空火力が低下し、加えて被雷の浸水により速力までが低下して回避能力すらが低下し始めた大和に対して、米軍の第二次攻撃隊約150機は、より一層の苛烈で執拗な攻撃を第一遊撃部隊へ加えた。
1330時:第二次攻撃隊の米艦載機約150機が来襲
1337時:大和左舷中部に魚雷3命中、副舵取舵のまま故障
1338時:大和左傾斜15度、右舷への緊急注水により傾斜回復
1344時:大和左舷中部に魚雷2命中、速力18ノットに低下
1345時:大和再び左へ傾斜、副舵中央へ固定成功
1356時:駆逐艦磯風が浸水により速力低下
1402時:大和中央部へ中型爆弾3発命中、高角砲群壊滅大火災発生
1403時:大和右舷注水区画満水のため右舷機関室へ注水、機関員多数戦死、傾斜回復
1405時:軽巡矢矧が沈没

 次々と魚雷や爆弾の命中を受け続けた大和だったが、流石に重防御を世界に誇る主要防御部は1発や2発の命中では大きな損害を受けるものでは無かった。

 しかし、1337時から1344時までの短時間に左舷中央後部に相次いで命中した5本の魚雷は、ほぼ同一箇所へ集中して命中した事もあり、遂に強固な主要防御部内にまで損害を達しさせたばかりでなく、副舵までを操作不能に陥らせた。
 この副舵の故障は応急処置班の奮闘により約7分後に中央位置に固定する事に成功するのだが副舵の効果が無くなったため大和の回避運動能力が低下し、そこを狙ったかのように爆弾3発が煙突両側の高角砲群へ次々と落下した。

 加えて、この相次ぐ魚雷の命中は艦底で浸水阻止作業に悪戦苦闘していた応急処置班に大損害を与え、大和の応急処置能力を大きく低下させてしまった。
 また、主要防御部以外へも大量の浸水が発生し、それらによる艦の傾斜を回復させるため仕方がなく無傷の右舷側船体内へも大量の注水が行われ、艦内は確実に海水に満たされていった。
 そして、船体内への浸水により送受信所までが全滅し、大和の通信手段は原始的な旗流信号と発光信号を残すのみとなってしまった。

 また、浸水による船体の傾斜と魚雷や爆弾の直撃による衝撃で主砲の射撃指揮装置が故障し、統制射撃が不可能になってしまった。
 こうして世界最強を誇る戦艦大和の主砲射撃能力は半減してしまった。

この時点で戦艦大和は満身創痍の状況となり激しく炎と煙を噴き上げながら苦しそうに海上をのたうちまわっていた。しかし、米軍艦載機による攻撃は容赦なく続行された。


 戦闘開始から一時間半が過ぎ、この頃には既に後部艦橋左側や艦中央部煙突両側の高角砲群への直撃弾を発生源とする艦中央構造物周辺の大火災に加え、被爆や被雷による浸水や破壊で艦橋と艦内各部との連絡が不通になりはじめており、艦橋からでは余りにも巨大すぎる戦艦大和の全体を網羅しての命中弾や至近弾の判別が難しくなっていた。

 そのため日本側の公式記録とされる沈没までの直撃弾魚雷10本、爆弾5〜6発は、艦橋や生存者の証言により確実に集計できた命中弾を数えただけのものであり、戦闘後半の命中弾数には疑問点もある。
 なにしろ戦闘詳報と損害報告を比べても船体中央部煙突付近への命中爆弾数が3発と4発と言うように食い違っているのである。
 また、米軍側の記録では命中魚雷30本以上、命中爆弾15発以上とする凄まじい説まであるのだ・・・(筆者注:大和型の耐久力や被弾状況を考えると爆弾はともかく命中魚雷は多くても15本以下、たぶん12本程度が限界だっただろうと考える)。
1407時:戦艦大和右舷中央へ魚雷1命中
1412時:戦艦大和後部へ魚雷2命中。速度12ノットに低下。左傾斜6度。
1417時:戦艦大和へ左舷中央部へ魚雷1命中。傾斜が拡大し艦底の一部が露出。
1420時:左傾斜20度、以後も傾斜増大が続く
1423時:戦艦大和が遂に転覆し、その後前後部砲塔付近から誘爆をおこして沈没。
1425時:米軍艦載機隊攻撃を終了
 死闘開始から約1時間40分、浸水により船体は著しく傾斜し、加えて速力も大きく低下し、そして何よりも船体が飲み込んだ莫大な量の海水により操艦までが難しくなっていた。

 このため作戦続行不可能と判断した第一遊撃部隊司令長官の伊藤中将は、遂に生き残りの第一遊撃部隊全艦へ作戦中止を旗流信号を使って命じ、続いて艦長の有賀大佐が大和を日本本土の方向である北へ向ける事を指示した。(筆者注:艦を北へ向けると言う行為は死者を北枕で寝かせる事と同じ意味もあり、沈没を覚悟した処置であったとの説もある)

 1412時に命中した8本目と9本目の魚雷が大和の運命を完全に決した。
 大和の左舷船体後部と船体後部へ続けざまに命中した2本の魚雷が速力を大きく低下させただけでなく、ダメージコントロールの要である後部注排水制御室までを破壊してしまったのだ。

 これにより大和は、注水による傾斜回復や弾火薬庫への緊急注水の遠隔操作が困難となった。
 そのため急速に増加しはじめた船体の傾斜を食い止める術が無くなり、艦内は掴まる物が無いと立っているのも難しい末期的な状態となってしまった。
 しかも、この命中魚雷による浸水のため後部注排水制御室に続いて操舵室までが全滅して操舵不能となり、大和は左へ、左へと旋回を続けるだけの状態に陥った。
 また、この頃までに後部艦橋と第二副砲塔を中心に発生する大火災により第三主砲塔の弾火薬庫が危険温度に達したとの連絡が艦橋へ伝えられた。

 このように続けざまに致命的な損害状況が相次いで発生したため、防御指揮所でダメージコントロールの指揮を取っていた副長の熊村次郎中佐は、防空指揮所で戦闘指揮を続ける有賀艦長に損害回復不能のため総員退艦を進言し、有賀艦長はそれを受け入れ総員退艦命令である総員最上甲板を発令した。

 しかし1417時、総員退艦の時間さえ与えないかの如く事実上止めの一撃となった10本目の魚雷が大和の左舷中央部へ命中した。この魚雷命中の浸水により大和の傾斜は一気に増大し、やがて傾斜は30度までに達し船体右舷の艦底までが水上に露出する程までになった。

 このように総員退艦命令の発令から大和の転覆までの時間は極めて短く、本来なら沈没する艦に対して実施されるべき儀礼的行為も、辛うじて御真影のみは持ち出しに成功していたが、総員上甲板後に行われるべき軍艦旗への敬礼や万歳三唱後の総解散令等は実施する間すらが無かったと伝えられている。
 また、総員退艦発令から転覆までの時間が短かった事と転覆まで執拗に続けられた敵機の攻撃により大和乗組員達が沈みゆく船体から離脱するのが遅れ、極めて多くの戦死者を出す事となったとされている。
(筆者注:同じ航空攻撃で沈没した英国戦艦プリンス・オヴ・ウエールズの乗組員戦死率は25%程度だったが、大和の乗組員戦死率は90%にも達している)

 1423時頃、戦闘開始から約1時間50分後の苦闘の末に、遂に大和は浸水に耐えられなくなり左舷へ転覆し、その後に巨大な火柱を吹き上げると、どす黒いキノコ雲を天高く残して太平洋の深海へ消えていった・・・。
 近頃の潜水調査によると第二、第三主砲塔の弾火薬庫誘爆に加え、沈没時まで全力運転を続けていたであろう機関部からの水蒸気爆発により戦艦大和の船体は第二主砲塔部から切断され、同時に艦橋部や主砲塔が船体から離脱し、海底に四散していると言う。

 そして1637時、大和沈没の報を受けた連合艦隊司令部から残存の随伴艦隊に対して電令第616号が発令され海上特攻作戦は完全に終了した。

命令六一六号(昭和二〇年四月七日 一六三七発令)



 一.第一遊撃部隊ノ突入作戦ヲ中止ス

 二.第一遊撃部隊指揮官ハ漂流者ヲ救助シ佐世保ニ帰投スベシ



第二水雷戦隊
 また、わずか9隻で大和を護っていた随伴部隊の戦いも苛烈を極めた。
 大和を除くと第二艦隊で最も大きな艦である矢矧は、艦隊の先頭に位置していた事もあり大和と同時に第一次攻撃から集中攻撃の目標とされた。
 矢矧は、1時間をこえる奮戦の末に航行不能に陥り、排水量わずか七千トン弱の船体へ合計で魚雷7本、爆弾10発、至近弾多数の耐久力を大きく上回る命中弾を短時間に受け波間に消えていった。この命中弾数の多さは航行不能に陥ったところに集中攻撃を受けたことによるものである。沈没時間は1405時だった。

 また、第21駆逐隊の旗艦朝霜と第17駆逐隊の浜風は第一次攻撃第一派で撃沈された。

 大和左舷前方に位置するはずだった朝霜は、戦闘開始前に機関故障により艦隊から落伍しており「敵艦載機大編隊接近中」の連絡を最期に消息を絶った。
 朝霜は、間違いなく米艦載機の集中攻撃を受けて沈んだと推測できるのだが、その最後を看取る友軍は無く、米軍側にも朝霜の最期とはっきり特定できる記録が無いため最後の様子は未だに詳しく判っていない。

 大和右舷側方に位置した浜風は、敵雷撃機の侵入コース上に陣取り輪形陣の要として奮戦していたが、そのため集中攻撃の目標となり衣川の戦いにおける武蔵坊弁慶の如く多数の命中弾と至近弾を受け航行不能となり1248時に水面下に没した。

 第17駆逐隊の磯風は大和右舷側方に陣取り、大和へ向かう敵機を阻止しながら対空射撃と適切な操艦で第一次攻撃を無傷でくくり抜けた。
 しかし、第一次攻撃により損傷して航行不能に陥った矢矧から第二水雷戦隊司令部を移乗させるため大和を中心とする輪形陣から離れて矢矧に横付けを試みたところに敵の第二次攻撃隊による集中攻撃を受け、艦尾部への至近弾による損害で速力が大きく低下して艦隊から落伍した。
 その後、磯風は浮力が充分に残っていたものの浸水により航行不能に陥り本土へ帰還する術を失った。このため曳航が検討されたが、執拗に繰り返される米軍艦載機の追撃や潜水艦の攻撃等の危険が多く、夜間になり雪風へ乗員を移乗させ、2240時頃に砲撃により処分された。

 また、朝潮型駆逐艦最後の生き残りであった霞は、大和左舷側方に位置していたが、第一次攻撃第2波により2発の直撃弾と数発の至近弾を受けて機関部が破壊され航行不能に陥り艦隊から落伍した。
 霞も磯風と同じ理由で曳航が断念され、夕刻に駆逐艦冬月へ乗員を移乗させた上で1700時頃に雷撃により処分された。

 そして、この死闘を生き抜くことに成功した随伴艦も全てが傷付き疲れ果てていた。

 生き残った4隻の中でも最も大きな損害を受けていたのは涼月である。
 冬月と並んで有力な対空能力を有する涼月は、大和の左舷後方に位置し大和へ向かう急降下爆撃機や雷撃機を阻止していたが、第一次攻撃隊第2波の急降下爆撃により艦首部第2砲塔後方に爆弾の直撃を受け、第2砲塔弾火薬庫が誘爆して大火災をおこした。
 これは直ちに沈没につながる危険性が極めて高い大きな危機であったが、隣接する第1砲塔弾火薬庫にいた3名の兵員が自らの命と引き替えに第1砲塔弾火薬庫とその上にある居住区の船室を内部から閉鎖して誘爆と浸水を阻止した事で辛うじて沈没を免れた。
 このように艦首部と艦橋設備に大損害を受けた涼月は、この後僅か3ノットの超低速後進で執拗に繰り返された米艦載機の追撃をかわし佐世保に帰還することに成功している。

 また、冬月は大和右舷後方に位置して戦い続け、最後まで大和の直衛任務を全うして距離約500メートルの最も近い位置で大和の最後を看取ったが、ロケット弾2発と無数の機銃掃射や至近弾の破片を受け、見張員や対空機銃座の操作員達が次々と死傷し甲板上は血の海状態となり、上部構造物にも多くの損害を受けていた。
 しかし、幸運にも冬月に直撃した2発のロケット弾は不発であった。もしこのロケット弾がどちらか一方でも炸裂していたなら冬月の運命も違ったものになっていたであろう。

 さらに開戦以来の連戦の中で大きな損害を受けることがなかった幸運を持つ武勲艦として有名な雪風も、大和右舷側方に位置して最後まで大和の直衛任務を全うしたが、至近弾や機銃掃射により多くの損傷を受けていた。

 しかし、このような難戦の中で初春型最後の生き残りである歴戦の初霜だけは、他の随伴艦が次々と落伍する中で大和左舷側方に位置して義務を果たし続けたにもかかわらず、命中したのは機銃掃射と至近弾の破片のみで、死傷者もわずか2名と極めて少なく幸運艦の名をたかめた。
 ただし、初霜はこの戦いで武運を使い果たしたかのように終戦間際の7月30日に英軍機を含む艦載機の空襲と接雷により宮津湾で擱座して果てる事になった。

 辛うじて作戦能力を残して戦いを終えた冬月、雪風、初霜の3隻は、大和沈没後も米艦載機の執拗な追撃の中で、海上に漂流する沈没した大和や随伴艦の乗組員達を可能な限り収容し続け、艦橋設備の損害により東南方向へと迷走していた涼月に日本本土の方向を教え生還をたすける等と随伴艦隊としての義務を最後まで果たした上で佐世保へ帰還し任務を終了した。
墓標
  沈没艦艇6隻:戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦朝霧、浜風、磯風、霞
 そして戦艦大和に乗り組んだ総員3332名の将兵の中で、生存者はわずか269名(生存者276名との説もあり)だった・・・もちろん、その中には伊藤中将や有賀艦長の名前は無い。二人は良くも悪くも誠に日本の武人らしい最期を遂げたのである。

 伊藤長官は、作戦中止を命じた後に大和を有賀艦長に任せると付近の参謀や士官達一人一人と握手を交わした後に艦内の長官室の中へ消えた。その扉は再び開けられる事はなかったと伝えられている。
 そして有賀艦長は、防空指揮所の羅針儀台に自らの身体をロープで結び付けて艦と運命を共にしたと伝えられている。

 また、第一遊撃部隊の戦死者は戦艦大和乗員だけで3000名余、随伴艦艇における戦死者1026名を加えた第一遊撃部隊全体での戦死者総数は、約4100名にもおよんでいた。
 この海上特攻では、1944年10月のレイテ沖海戦から翌年8月15日の終戦までの間に陸海軍の航空特攻により発生した戦死者総計4279名にも迫る4100名余の戦死者がわずか1時間50分の戦いで一方的とも言える状況で発生したのだ。

この悲壮な第一遊撃部隊の戦いを讃え全軍の士気を鼓舞するべく、豊田大将に代わり5月より連合艦隊司令長官と護衛総隊長官を兼ねる連合艦隊総司令長官に就任した小沢治三郎中将は7月30日に以下の訓令を全軍へ布告し第一遊撃部隊戦死者達の慰めとした。
 「海上特攻隊トシテ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ伝統ト水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揮シ艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士皇国護持ノ大義ニ殉ズ 報国ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ」
 また、小沢中将は、戦後に周囲の者達に軍令部次長でありながら第一部隊の出撃を止められなかった事を強く悔やんでいるともらしていたと言う。

 しかし、この戦いの悲劇は第一遊撃部隊だけでなく遠く離れた日本本土にも及んでいた。
 当日には、大和の沈没により攻撃目標を失った米軍艦載機の一部が、弾薬の捨て場所として九州南部の航空基地や都市を襲い日本側は兵員ばかりでなく一般国民にも大きな損害を出したのだ。

 そして後日には加えて、この戦いにより日本に有力な水上戦力が全く無くなった事を悟った連合軍が潜水艦ばかりでなく、戦艦を含む水上戦艦艇を日本近海で跳梁跋扈させ、日本本土近海の制海権を完全に奪い取り、さらに終戦直前には日立や浜松と言った臨界都市が戦艦による艦砲射撃にまで見舞われる事となった。

 こうして、戦いは終わった・・・現在大和は、東シナ海長崎県福江市男女群島南176キロ、北緯30度43分、東経128度04分、水深345メートルの海底に運命を共にした多くの英霊達の骸を体内へ護り、その四散した巨体を静かに眠らせている・・・。
部隊編成

第二艦隊第1遊撃部隊(司令長官伊藤整一中将、参謀長森下信衛少将、旗艦大和)

 戦艦  :大和(大和型 公試排水量約67000トン 沈没)



 第2水雷戦隊(戦隊司令古村啓蔵少将 旗艦矢矧)

  軽巡洋艦:矢矧(阿賀野型 公試排水量約6600トン 沈没)



  第17駆逐隊(駆逐隊司令新谷喜一大佐 旗艦磯風)

   駆逐艦 :磯風(陽炎型 公試排水量約2500トン 大破後処分)

        雪風(陽炎型 公試排水量約2500トン 小破)

        浜風(陽炎型 公試排水量約2500トン 沈没)



  第21駆逐隊(駆逐隊司令小瀧久雄大佐 旗艦朝霜)

    駆逐艦 :朝霜(夕雲型 公試排水量約2500トン 沈没と推定)

              霞 (朝潮型 公試排水量約2400トン 大破後処分)

              初霜(初春型 公試排水量約1700トン 損害極めて軽微)



  第41駆逐隊(駆逐隊司令吉田正義大佐 旗艦冬月)

   駆逐艦 :冬月(秋月型 公試排水量約3500トン 中破)

        涼月(秋月型 公試排水量約3500トン 大破)


<制作:EEG 相曽 / 監修:(株)チキンヘッド 南>

戦艦大和ノ最期 1 戦艦大和の最後 一高角砲員の苛酷なる原体験 2 戦艦「大和」最後の艦長 3 最後の巡洋艦・矢矧 4  帝国海軍士官になった日系二世 5  雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯 6
書籍紹介
 第一遊撃部隊の海上特攻作戦に関連する書籍は数多く出版されている。
 まず、その中で艦隊の中心であり戦いの焦点であった大和に関する3冊を紹介しよう。

 1冊目は、私が戦艦大和の海上特攻に興味を持った全ての人に必ず一度は読んで欲しいと思っている戦争文学書を紹介しよう。
 それは「戦艦大和ノ最期」である。
 本書は通信士官として大和に乗り組み海上特攻を体験した吉田満氏によって書かれた日本戦争文学の代表的名作である。当時の戦闘詳報に倣って漢字カタカナ文体で書かれている本書は、現代の若者には読み難いかもしれないが、読者に多くの影響を与え得る力を持つ優れた書籍のひとつとして、軍事や歴史、兵器のファンにだけでなく、多くの日本人に一度は読んでもらいたい一冊だと考えている。

 2冊目は類似したタイトルで同じ戦艦大和の海上特攻を扱ったている「戦艦大和の最後」である。こちらは叩き上げの下士官として大和に乗り組み海上特攻を体験した坪井平次氏により書かれた書籍で、普通の文体で書かれているため現代の若者にも読みやすい。また、内容的には吉田氏の作品が士官の立場から戦艦大和の最後を書いているのに対して下士官や兵の立場からの戦艦大和の最後を書いており、その違いからか戦争の不条理さや悲惨さをより強く訴えかけてくる秀作と呼べる一冊である。

 そして3冊目が「戦艦「大和」最後の艦長」である。本書は最後の戦艦大和艦長として艦と運命を共にした有賀大佐の伝記である。本書は戦艦大和の最後の戦いにおける指揮の様子等が書かれているばかりでなく有賀大佐のひととなりや経歴等も詳しく書かれており、戦艦大和と言う鋼鉄の化け物が艦長から水兵までの数多くの血肉のある人間の喜怒哀楽の中で動かされ、彼らを道連れにして沈んでいった事を感じさせてくれる一冊である。

 次に戦艦大和に随伴して海上特攻に参加した第2水雷戦隊の各艦に付いて扱っている書籍をいくつか紹介しよう。

 まず第2水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧に付いては「最後の巡洋艦・矢矧」を紹介したい。本書は大和の影に隠れがちな軽巡矢矧以下の随伴艦隊の海上特攻での戦いに多くのページを割いており、大和だけではない悲劇を充分に伝えている。
 また、太平洋戦争における日本軍軽巡の活躍や実態を知る上でも貴重な一冊と言えよう。

 また、ちょっと風変わりな一冊としては「帝国海軍士官になった日系二世」はどうだろうか。本書は日系二世として米国籍を持ちながら慶大留学中に学徒として帝国海軍に入隊し、海上特攻へ参加する軽巡矢矧へ士官として乗り組み、その沈没から辛うじて生還し、戦後は米国籍を失い日本で航空業界の復興に尽くした山田重夫氏の生涯の記録であり。前半部分に日系二世の帝国海軍士官と言う特殊な立場からの軽巡矢矧の海上特攻が書かれている。本書は発売当時に新聞各紙が絶賛した一冊である。

 次に戦艦大和に最後まで随伴し、その最後を看取った第2水雷戦隊第17駆逐隊の駆逐艦雪風の生涯を書き上げた「雪風ハ沈マズ」を紹介しよう。雪風は日本駆逐艦で最も有名な歴戦の殊勲艦で、本書は海上特攻への随伴だけでなく開戦から終戦、そして終戦後までの雪風の活躍を紹介している。

 この駆逐艦雪風の水上特攻での活躍に付いては近頃出版された「駆逐艦『雪風』」でも重要なエピソードとして扱われている。
 本書は、文中でF6F−5が大戦末期に対艦攻撃のため装備した20o機関砲とロケット弾の脅威に触れていたり、現存している歴代艦長や乗組員へインタビューを行って当時の雰囲気を得てから出筆したりと筆者の綿密で熱意有る調査が伺える作品である。
 現在では否定的見解の多い片道燃料での出撃説を採用している等と細部に付いて疑問点がないわけでもないが、読みやすい戦記小説として充分な御勧めの一冊と言えよう。

 また、雪風と同様に第2水雷戦隊の第17駆逐隊に所属し、奮戦の末に航行不能となって処分された駆逐艦磯風に付いては「駆逐艦磯風と三人の特年兵」が、その活躍と最後を紹介している。

さて、最後に副読本として利用できそうな4冊を紹介しよう。

 まず、戦艦大和と海上特攻に付いて学習研究社の歴史群像太平洋戦史シリーズの「大和型戦艦」「大和型戦艦2」を紹介する。この2冊は、戦艦大和と同型艦である戦艦武蔵の構造や性能、そして建造から最後に至るまでの記録やエピソード、艦長等の人物紹介等の多くの情報を簡単にまとめている入門書で「大和型戦艦」に続いて「大和型戦艦2」が続けて出版されたことで、かなり深い事まで掘り下げた記事が掲載されている。

 また、航空機による特攻を含めた天一号作戦に関しての入門書のひとつとして、「図説 太平洋海戦史 3 」を紹介したい。本書は多くの作戦図や写真で天一号作戦を含む太平洋戦争末期の海戦を紹介していて、その中にはマリアナ沖海戦や台湾沖海戦、レイテ沖海戦等も含まれており、天一号作戦だけでなく、そこに至るまでの経緯を含めて太平洋戦争末期の海戦の流れを知ることができる。
 ただし、海上特攻作戦だけとして見ると、多くのページを占めているわけではない。

 最期に「戦艦大和と武蔵−別冊歴史読本43」を紹介しよう。
 本書は、先に紹介した「最後の巡洋艦・矢矧」の海上特攻に関するくだりをまるまる引用して掲載おり、加えて木俣滋郎氏の記事では、「大和被害表」と称して米軍側の攻撃戦力や攻撃結果に触れている等と簡易な内容で戦いの全容を知るには便利な一冊である。
 ただし、問題点として私でも指摘できる俗説的部分が内容に含まれている事がある。
 しかし、この傾向は今回紹介した書籍を含む他の書籍でも多く見られる事であり、そのため簡単に全てを鵜呑みにしないならば、この問題は重大な欠点とはならないだろう。
  1. 「戦艦大和ノ最期」(講談社) \940
  2. 「戦艦大和の最後」(光人社) \686
  3. 「戦艦「大和」最後の艦長」(光人社)
  4. 「最後の巡洋艦・矢矧」(新人物往来社) \2,200
  5. 「帝国海軍士官になった日系二世」(築地書館) \2,400
  6. 「雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯」(光人社) \2,300
  7. 「駆逐艦『雪風』」(幻冬舎)
  8. 「駆逐艦磯風と三人の特年兵」(光人社) \2,200
  9. 「大和型戦艦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ 11)」(学習研究社) \1,553
  10. 「大和型戦艦2 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ 20) 」(学習研究社) \1,800
  11. 「図説 太平洋海戦史 3 」(光人社) \2,913
  12. 「戦艦大和と武蔵 (別冊歴史読本・戦記シリーズ 43)」(新人物往来社) \2,000
(価格は税抜き表示です。)
駆逐艦『雪風』 7 駆逐艦磯風と三人の特年兵 8 大和型戦艦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ 11) 9 大和型戦艦2 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ 20) 10 図説 太平洋海戦史 3 11 戦艦大和と武蔵 (別冊歴史読本・戦記シリーズ 43) 12


| 特集目次へ | トップページへ現在のかごの中 | 書籍紹介 |